2007年12月2日日曜日

ルールにたいする意識

金曜の憲法の授業は,校則の問題を取り上げた.
パーマをかけたり,バイクの免許を取ったことで校則を破り,結果として退学に至った学生の起こした訴訟を紹介したわけだ.

校則は学生にとってはついこの間まで身近に接していたルールだ.
感想を読むと,そこから学生の規範意識もちらほらと垣間見てきて面白い.

こちらとしては,校則がどの程度まで必要で,その目的が本当に合理的なのか,いったん自分の頭で考えて,そこから校則の必要性の有無,必要な場合どの程度まで学生の行動を拘束するべきか自分で結論を出して欲しい,というのがとりあげる最大の教育目的である.

講義をろくに聞いてへん箸にも棒にもかからんのはさておき,半数近くが「決まりは守るべきだ」とか,「当たり前」といった感想を寄せてきたのはヘーゲル弁証法的に表現するならば,即自から対自への移行途上にある(問題として対象化する段階にまだ到達していない)というべきだろう.

中学校の教師をしているいとこのエピソードも交えたので紹介しておこう.
ある日,ピアスをつけて登校してきた学生が見つかり,職員会議が2~3時間続いたらしい.
いとこは個人的にはピアス程度はっきしいってどうでもいいという個人的見解なのだが,うるさい(声も校則に対しても)教師が主導権を握りやはりダメとのことだった.

このエピソードを紹介しつつ,校則が生徒の行動のどの範囲まで踏み込んでいいのか,学校は基本的に勉強する場なので,しつけとか衣服やアクセサリーの好みは範囲外ではないか,とひとことコメントをした.
これに対しても「勉強さえしていればよいといってピアスが大丈夫なら,極端に言えば窓ガラスも割っていいことになる」という感想が出てきた.

パーマやバイクの免許を取ること,さらにどんな服を着るかという判断は,自己決定権に含まれるのであって,それはしたいことを無条件にすることを意味するのではなく,他人に害を及ぼさない範囲で許されるのだということを直前に説明しているのだが,この学生の場合どうも聞いちゃいないのか.
あるいは,まじめさゆえに,あたかも校則なんて破っていいと教師が薦めていると受け取って感情的に反発したのか.

まじめであることにアイデンティティを見出している人ほど,考えが硬直してしまうんだよなぁ.
既にあるルールに対して守る守らないという枠でしかとらえられなくて,守る=善,守らない=悪という図式がしっかり定着しているみたいだ.

本来校則なんて倫理的な善悪とはかかわらないルールのはず(始業時間がいつとかひとつの授業時間は何分かとか).
しかも,歴史は法やルールを守ることが必ずしも善であることは示していない.
わかりやすい例ではユダヤ人を迫害したナチの法律.
外務省の通達に従わなかった杉原千畝の例.
日本でもらい予防法といった明らかに優生学思想の色濃く残った法律などなど.

仮に自分が教師になって,あるいは親になって,生徒や子供が校則の意味について尋ねてきた時,どう答えることができるのか.
「きまりだから」とか「みんな守っているから」というのでは,まともな答えにならないだろう.
まぁ,残り半分は校則の意味について考えだしたようなので,教育的効果は半分伝わったと希望的観測を込めて思っておこう.

そういや,別の学生が感想用紙に「先生の専門はいったいなんなのですか?」と書いてきた.
この学生は,もうひとつの政治文化論という講義もとっていて,「いろいろ勉強になる」とありがたくも評価してくれてのことではあったのだが…
最近,自分でもアイデンティティの揺らぎに悩むこと多い日々である.

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