冒険氏のブログに最近放映されたバレンボイムのドキュメンタリーについての言及があった.
サイードとバレンボイムの交流は公刊された二人の対談でも述べられているが,そのワーグナー演奏を評価していたサイードからのアプローチだったらしい.
二人の交流は,私的なものからそれぞれの出自であるユダヤとパレスチナをめぐり社会的な活動へと展開していく.
イスラエルとパレスチナから若い音楽家を募り合同のオーケストラを組織し,音楽という普遍言語を媒介に両者の交流を図ろうとするものだ.
泥沼のパレスチナ問題を音楽が解決するとはサイードもバレンボイムも思わないだろう.
ただ,音楽が解決へのひとつの糸口をあたえてくれるかもしれず,その希望に賭けることからはじめてみようという点で二人が一致したからこそ,こうした活動が行われることになったのだろう.
ここではそのことについてこれ以上書かない.
というのは,とても長い文章になることが明らかだから.
ここでは,サイードとバレンボイムに対する個人的な思い出について書きたい.
かつて東京で朝日新聞が主催したメセナ関連の会議に招かれたサイードの講演を聞く機会があった.
内容は直前に刊行された『文化と帝国主義』をうすめたものだったように記憶しているが,なにより驚いたのがはじめて聞く彼の肉声だった.
とてもきれいなブリティッシュ・アクセントでよどみなく言葉がつむぎだされていく.
そして,どこか書生くささを感じさせてしまうやや高い声.
今では彼の講演は容易に購入することができるのだが,約10年前は難しかった.
現在でも,ときどき英語の耳鳴らしとして彼の講演を収めたCDを聞き流すときがある.
バレンボイムは本拠地としているベルリン歌劇場でローエングリンとベートーヴェンの第9を聞いたことがある.
ローエングリンの演出はとても斬新で,それに抵抗を示す客がいたのだが,演奏それ自身は楽しんだおぼえがある.
確か1996年12月28日頃だったはず.
その二日後の30日に第9を聞いている.
ローエングリンに比べると第9はよくなかった.
あんなに感動しなかった第9は,後にも先にもあれだけかもしれない.
そのときのメンバーで直後に録音されたCDも買って聞いたが,やはり感心しなかった.
指揮者としてのバレンボイムはワーグナーとブラームスの一部(これも好き嫌いはあると思うが)がよく,どうもモーツァルト(除くピアノ協奏曲)やベートーヴェン,さらにそれ以外の大半の作曲家についてもあまりいい演奏をしているとは思えない.
バイロイトでのトリスタンの演奏はDVDでも持っていて,これは映像として残されたトリスタンの現時点でのベスト(シノーポリによるトリスタンの映像が残されていれば別)だが,ちょっと他との落差が激しすぎる.
バレンボイムがお手本にしているのはフルトヴェングラーであることは公然の秘密だが,やはりフルトヴェングラーの演奏するブラームスやワーグナーはかなり消化できても,ベートーヴェンは無理ということなのかもしれない.
バレンボイムの才能うんぬんというよりも,フルトヴェングラーのベートーヴェンがあまりにも特異すぎるというべきだろう.
冒険氏のブログに触発されて,今日はフルトヴェングラーを久しぶりに聞きまくったのでした.
おしまい.
3 件のコメント:
せっかくだからトラバ送ってくださいよー。
しゅみません.
ひとまず当該記事のリンクはっときました.
ありがとうございます。
でも、そうではなくて、逆にうちのブログからavantiさんのところに訪問する人を誘導するためのトラバ、ということなんだす。
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