2008年3月24日月曜日

職業倫理

先日阿蘇に出かけた時は,県知事の選挙戦が始まっていた.
本日投票の結果,自民党の支援する元東大教授の蒲島さんが当選した.
蒲島さん,学者から実務の道へ何を思ったか転身するのだが,果たしてどの程度行政を掌握して県政を担っていくのであろうか.

数学や物理学とは異なり,観察の対象と実践の間に明快な境界線を引きにくいのが政治学だ.
学問分野での知名度がすなわち実務での有能さを表すとは必ずしも限らない.
事実,政治学や国際政治で名だたるあの人,この人,どれもそのまま学者さんでいてくださいという人ばかりだ.

学者さんが既成政党の集票マシーンとは異なる形で当選するのであれば,それは面白いことで,期待もする.
しかし学者さんが既成政党の候補として出馬するとなると,どう転んでも傀儡どまりじゃないか.
そこをぐっと押しとどまるのが職業倫理と個人的には考えている.

そういや,ちょっと前の大阪もそうだったし,これからの地方行政はますます国の,というか政権与党のいいなりになる程度があがるんだろうなぁ.
あ,でも三重の北川元知事のように2期くらい知事を務めたら反多選という口実で引退してまた大学教授のポストにおさまるという道もあるな.
そうしたほうがあの分野だとハクもつくだろうし.
つぶつぶ・・・

2008年3月22日土曜日

犬の話

昨日,帰宅途中信号待ちの交差点で犬の散歩中のおじさんといっしょになった.

このおじさんの連れている犬があまりにもマンガちっくな顔つきをしているので,ついつい声をかけてしまった.

「かわいい犬ですね.なんていう犬なんですか?」と私.

「○○です.」とおじさん.

「犬の写真,撮ってるんですか?」と私.

おじさん,首からSONYのデジタル一眼レフをぶらさげ,にっこりしながら

「ええ,ははは」と笑って答える.

多分,レンズキットで購入したカメラだな,と思いつつ,

「原産地はどこになるんですか?」とさらに私.

「イギリスです」とおじさん.

そろそろ信号が変わりそうになる.

「あの〜,ちなみにおいくらくらいするのでしょうか」とぶっちゃけ質問してみた.

「ネットで買うと40万くらいでしょうか」

内心えっと驚いたのが表情に出たのを読み取ったのか,

「でもこの犬はそんなにしませんでしたよ」とおじさん,もう一言付け加えた.

信号も変わり歩行者も車も交差点を渡り始めたので,お礼を述べてビールを買うためにジャスコへ向けて自転車を飛ばしたのであった.

で,実は肝心の犬の名前が思い出せない.
毛がほとんどなくて,体全体が白く(肌色に近い?),割と小さめのサイズ.
目の回りに赤っぽいふちがある.

しかし,検索しようにもどうしようもないな,これでは.

ビールを買っている間にすっかり名前を忘れてしまい,途方に暮れつつ将来思い出すことを期待してこの一件を書き留めておくことにした.

2008年3月19日水曜日

福岡沖地震



2005年3月20日撮影.

発生直後の研究室の様子.
普段のように出勤していたらどうなっていたことか.

阪神大震災に続き難を逃れた.

地震から3年目を迎えたが,防災意識がどれだけ根付いたのか,やや心もとなく思うこともある.
関西でもそうだったが,人は天災を忘れやすいようだ.
しばしば,天災という言葉に政治が含まれることもあわせての感想になるが.

2008年3月18日火曜日

ハコもの行政と文化支援

バブル以前から日本の文化行政はハコもの行政と指摘されてきた.
時間と金をかけてじっくりと中身を育て得るよりは,土建業にも利益を分配し翻って選挙のときの集票マシーンを期待する政治家にとっても相互に利益となっていたからだ.

パスカル・ロジェのリサイタルのあった八幡のホールも地域文化振興策の色濃い施設で,その意味ではハコもの行政の典型といっていいだろう.

通常,ハコもの行政という言葉は否定的な意味合いを帯びる言葉として用いられている.
外側は金をかけて立派に出来上がっても,いれるべき中身が貧弱だ,という揶揄が込められている.
しかし,まれにだが出来上がったハコにすばらしい中身がもられることもある.
その一例が滋賀県のびわ湖ホールだ.

ここは開館当初から若杉弘を芸術監督に迎えオペラ上演に積極的だったのと,ピーター・ブルックの芝居がかかったりと,休眠状態と化していたフェスティヴァルホールに代わり質の高いオペラや芝居を関西圏の観客に提供してきた実績がある.

ところが,財政削減のしわ寄せが,このホールにも押し寄せてきているらしい.
びわ湖ホールをめぐるこんな記事を見つけた.

びわ湖ホールに波風

簡単に言えば,ホールは赤字で支出を削減すれば福祉予算をカットせずに済むという議論が県議会でなされているというもの.
相も変わらず低調な議論とそれを垂れ流しする報道にはうんざりする.

芸術関連の運営で赤字を出さずに済むほうが奇跡的な事態であって,あらゆる分野で収益性を求める議論をしても頭の悪さを露呈するだけではなかろうか.
まぁ,これは良識のある者なら大抵は感じている事実なのだが,問題はそれ以外にもありそうだ.

それは報道のあり方である.
福祉予算を維持するためにはホールの予算をカットするしかないような印象を読み手に抱かせる書き方にも多いに問題があるだろう.
報道の役割は政治家の設定したアジェンダを掘り崩すところにあるのに,これではただのお先担ぎ棒でしかない.

一見関係のないようで,文化は政治と切り離せない営みだ.
地域住民が文化を育成しているという感覚を抱かせるような運営を行政はすべきで,予算カットで解決できる問題は実は少ないのがほとんどの事例だということをメディアももっと強調してもらいたいところだ.

秋月探訪

土曜日は八幡までピアノのリサイタルに出かけたのだが,翌日曜は秋月まで出かけた.

明治維新直後の秋月の乱で名前を知ることになる秋月は,博多から日田を結ぶ旧朝倉街道を途中で北にあがりしばらく進むと着く.
山を越えると嘉穂郡.

明治以後は人口の流出が進み,城下町というほどの街並も残ってはいない.

到着が夕方だったので観光客もまばらだった.



1810年に長崎からオランダの建築技法に通じた職人を呼び寄せて作らせたと言われている眼鏡橋.
長崎の眼鏡橋はその名の通り二つレンズだが,こちらは一つ目.

菜の花がきれいに咲いていた.

秋月城址に残る鎌倉時代に作られたという黒門.



端正な門構えは,現在「垂裕(すいゆう)神社」の門に転用されている.
門瓦の上に見える枝の間に月がのぞいている.



石段を上ると境内にたどり着く.
境内それ自身はいたって質素で,掃き清められた境内も地味なものだった.
香椎宮や筥崎宮のように国策に便乗した神社とは異なる雰囲気がにじみ出ていた.



参道の石灯籠.
月は秋月の月を連想させるのだが,秋月藩の家紋がどのようなものであったのかは調べることができていない.

時期をずらしてあらためて散策に訪れたいところだ.

2008年3月15日土曜日

栗林工業とのお別れ

ここ数日つきあってきた栗林工業によるペトリ・オリコールのレンズだが,今日でお別れとなる.

といってもどこかに売りに出すというわけではなく,清掃をお願いしていた他のレンズが到着したためにそちらの確認作業にとりかかるということだ.

レンズの前玉に拭き傷がひどいのだが,これまでの撮影ではあまり目立たなかった.
通常使う分にはそれほど深刻な問題ではないということなのだが,さすがに逆光ではきつかった.



緑色のゴースト以外にも斜めの筋が二本平行ででている.
さすがに傷の影響大なのだが,毎度毎度こんなふうには撮影しないのでそれほど気にしなくてもいいかな.

とはいえ,お日様の形を見てもわかるようにちと問題があることも確かだ.
これじゃあ太陽の形を誤解しそうになる.

次はヘリオス44という旧ソ連製レンズで遊ぶ予定.

パスカル・ロジェを聴く

この土曜日は北九州の八幡まで出かけてきた.
八幡と言えばなんといっても八幡製鉄で,新日鉄とくるわけだが,今や八幡には三菱化学の工場が残るのみで新日鉄の広大な跡地はスペースワールドという名の遊園地になっている.

おそらく八幡に対する文化振興策の一環で建てられたであろう小規模のクラシック専用ホールがここにあり,パスカル・ロジェがくるとのことで聴きにいくことになった.



会場となった「響ホール」は皿倉山への途中にある.
外装はかつてリクルートビルがよく使っていた全面ガラス張り.

そもそもリサイタルを知ったのが,職場の互助会の案内だった.
抽選とのことで応募したら当選.
でも当選してもちゃんと代金を払う義務のあるよくわからない抽選だった.

さて,パスカル・ロジェは現役フランス人ピアニストとしてはミシェル・ベロフと並ぶ印象派弾きとして来日も多いのだが,関西に住んでいたときは室内楽の伴奏だったりといまいち縁がなかった.

今回のリサイタルは印象派直球勝負.
フランクからフォーレ,ドビュッシーにラヴェルとサティという具合に盛りだくさんだった.

ラヴェルのソナチネやドビュッシーの版画など,印象派の幕開けを告げる代表的な曲目を前半に置き,後半はドビュッシーの前奏曲集第1巻という配置だった.

ロジェの演奏は曲の色彩感を淡く紡ぎだすように繊細なタッチを重ねていく,まさに水墨画風の演奏.
ベロフのような切れ味に欠ける分,印象派の醸し出す曲調を表すにはいい演奏だった.

それにしても,前奏曲集はピアノ曲の傑作だ.
何度聴いても新しい発見がある.

ロジェさん,リサイタルの後はCD購入者に限ってサイン会も開いていた.
きさくに握手や写真にも応じていて,手慣れたものだ.



あまりの列の長さにこっちは断念.