2009年4月25日土曜日

美学について思うこと

「美の壷」が今日の番組で唐紙を扱っていたので見てみることにした.
関西に住んでいた頃,京都の唐長の唐紙を知っていたので,もしやと思ったら,やはり紹介されていた.

1791年に作られた版木がお店で最古の型となるらしい.
とすると,18世紀末,ほぼ19世紀ということだから,これを古いとみるか案外新しいとみるか.
唐紙の歴史は平安時代にさかのぼるらしいので,歴史は古いのだが,なぜ18世紀以前の版木が残っていないのだろうか.

京都は応仁の乱で市中の大半が焼けたというから,それ以前の版木が残っていないのは理由としてわかる.
その後の戦国時代も動乱の時期ということで同じとみなすとしても,江戸以降はどうだったのだろうか.
古い店があったとしても,途中で廃業した結果,版木が伝わらなかったという可能性もある.

なんとなく気になった.

もうひとつ,番組の中で白州正子のエッセイが紹介されていた.
唐長の唐紙を評して「余裕のあるうつくしさ」という言葉で表現をしていた.
これがひっかかる.

「余裕のあるうつくしさ」とは,どういうことなのだろう.
わかったようでわからない表現だ.
目の前に物質として存在している唐紙をうつくしいと思うことはありうるだろうが,「余裕のある」というのはどういうことなのだろう.

日本の美学用語,とりわけ江戸期に用いられていた文人による画評なども,昔読んでいて分析的でないと思うことが多々あった.
なんとなく雰囲気を表すのが美学用語だとしたら,個人的には困る.
見れば分かるというのであれば,語る必要はないわけだし,語って伝わらないのであれば,それもまた語る必要がないのかもしれない.

しかし,すべての芸術的感動には,どうしても語り尽くせないものが含まれていて,その語り尽くせないものは,根源的な感動を経験した者にしかわからないものだとしたら,美について語る意味の中心には語ることでは伝わらないものがあることを伝えることにあるのかもしれない.

それにしても,草刈正雄が谷啓の後継として進行役を勤めるのも,不思議な気分がするなぁ.

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