2010年1月5日火曜日

ロナルド・ドーアのエッセイに思う

年末から読み進めているマイケル・ケイター「第三帝国と音楽家たち」もなんとか最後の章にたどり着いた.
その合間にエアチェック音源のデジタル化を進めたり,家事をしたりしているのだが,手っ取り早く読了感を味わうことを目的に図書1月号を開いてみる.

ロナルド・ドーアによる「プラトンの優れた子孫 加藤周一」は,その出会いを振り返ることで加藤さんの思想の特質を端的に論じつつ,両者の見解の相違にも触れている(例えば安全保障について).
経験的事実を範疇化して現実の分析道具としていたことへの言及は,短いながらも鋭い指摘だ.
(ちなみに,ドーア氏が文章を書くにあたって,加藤さんに言及したブログをネットでチェックしたという箇所には笑ってしまった.ここにも是非寄っていただきたいものだ)

ところで,没後降って湧いたようなメディアや学者による加藤さんへの言及は,正直違和感を抱くものが多い.
生前の加藤さんは,個人的にであるが,日本において知識人としての孤立感を感じることがあるとたびたび言及していた.
アカデミズムやメディアにおける批判精神が貧弱であると感じていたようで,時事問題を話す時に分析や批判が「弱いね」としばしば口にしていた.

その後9条の会にともに名を連ねることになる梅原猛が中村元と対談した記事を夕陽妄語で取り上げた時も同様である.
一神教によるキリスト教に対し,多神教を基調とする仏教こそが,異質な他者を認める寛容な宗教であり,すなわちより平和的であるという論旨に対する批判を加藤さんは展開していたのだが,梅原氏本人はもとより,宗教界,メディアからほとんど反応がなかったらしい(キリスト教界から若干の反応があったらしいが).

どうも加藤さんは議論や論争の欠如を,日本のアカデミズムのひとつの特質と定義さえしていた節もある.
意見を交換する中で議論が整理されていき,対話している相手が文字通り「啓蒙」されていく事実を体感していく.
プラトン的(ソクラテス的)姿勢が血肉と化していた人物にとって,建設的な批判精神を媒介とした対話の相手が年月とともに減っていくことはさらに孤立感を強めたかもしれない.

最晩年,小森氏や成田氏との対談が目を引くわけだが,同時代人として議論を交わすというよりも,ご意見拝聴や,戦後知識人の業績を回顧する傾向が強かったのはやや残念.

送信者 Portugal

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