2008年12月6日土曜日

自分が自分であること:加藤周一さんの訃報に接して

人生を20年で一区切りに考えている.
そう思うのは,自らの経験に照らしてのものだ.

20歳の時,夏休みで帰省した自宅のテレビで偶然に見た日曜美術館は,ドラクロワとロマン主義についての番組だった.
そこには進学した学部で客員教授として教鞭をとっておられた加藤周一さんがいた.

高校のときから評論文が苦手だったこともあり,彼の講義は敬遠していた.
しかし番組の中で話す内容に引き込まれ夏休みを終えた後期から早速講義をモグリに行くことになった.
講義は二つ.
ひとつが『日本文化論』と題する講義でその時は鎌倉仏教について,もうひとつが『外国文化事情』と題してNew York Review of Booksを受講生に読ませていた.

そのうち,講義の合間や終わった後に質問をするようになった.
講義の後にそのまま夕食に誘われ,長い時間を時には二人だけで過ごし,いろいろな話をうかがう機会に恵まれた.
入手できるほぼすべての著作を購入し,繰り返し読み,自らも厳密な言葉の使い方=思考の展開に注意を払うようになっていった.
それまでの自分とは違う自分になる新しい世界を提示していただき,なんとかその世界に踏み込んでいくための知的好奇心と勇気,寛容さを肌に感じた.

阪神大震災の日,たまたま京都にいて難を逃れた私は,日中公衆電話から加藤さんに連絡をした.
何度も神戸の下宿に電話して下さっていたことを知り,ただの大学院生に対してこれほどの心配をしてくださったことに平等の意味を体感した.
また,著名な学者と同席しているときにこちらが加わる際にも友人として紹介して下さった.

これまでも,また現在の日本にとっても常に座標軸としてその存在があった.
しかし,常々加藤さんが気にかけていたことが,自らの意見を無批判に受容することに対してであったことにはもう一度注意せねばなるまい.
自らの思考を通過させることなく他者の見解を受容することは,結果的に戦前の日本社会の基本的な構造と変わるところがない.
残された我々は,自ら情報を集め,それを分析し,意見をまとめあげる作業を続けていかなければならない.

加藤さんからは知的な柔軟さと思考の厳密さのみならず,美的な感受性の豊かさも教えていただいた.
構想通りに実現したならば,日本美術史序説として刊行されたであろう日本美術の講義は具体的な作品分析を通して日本美術の特性を浮き上がらせていくものであり,毎回わくわくしながら講義に出席していた.

京都での幸福な学部生時代に受けることができた加藤さんとの直接の接触を通して,その人格的な幅の広さについても文字通り身体的レベルで教えていただいた.

死は誰にでもいつかはくるべきものだ.
サルトルの死について加藤さんの書いた文章が,加藤さん自身の死に接して思い出される.
「人は誰でも死ぬ.サルトルでさえも」
加藤さん自身も時々自らの死について言葉にすることがあった.
それは鴎外のエッセイに展開されたものに同意するというものだった.
おそらくは戦時中の美化された死に対する違和感を生涯抱き続け,同時に医師として見てきたいくつかの死を胸にしつつ,そのような心境に至ったのかもしれない.

個人的には,将来ヴァレリーがユーパリノスで描いたように純粋精神として再会したいとも思うのだが,きっと感覚的世界を欠落した純粋精神にどのような意味があるのか反問されてしまうだろう.

来年40歳になることを考えれば,20歳から40歳までの人生の第二ステージは,加藤さん無しではあり得ませんでした.
加藤さんとの出会いがなければ今の私は存在しません.
これまでのご教示に心からお礼申し上げます.
これまでの私を形成してきた大部分はあなたの教えによるものです.
これからも著作を通して内なる対話の相手になってください.

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